現実を語る聖書
「汝の隣人を愛せよ」という割には、「信じるものは救われる」といった、どう考えても矛盾に満ちたキリスト教。
その聖典である「聖書」の中に、浮きまくっている一節があります。
それは、コヘレトの言葉(伝道者の書)です。
ちょっと、冒頭から引いてみましょう。
コヘレトは言う
なんという空しさ、なんという空しさ
全ては空しい
太陽の下、人は労苦するが
全ての労苦も何になろう
一代が過ぎ去ればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地
日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また登る
風は南に向かい北へ巡り、巡り巡って吹き、ただ巡りつつ吹き続ける
川はみな海に注ぐが満ちる事無く
どの川も繰り返しその道程を流れる何もかもが物憂い
語り尽くす事もできず、目は見飽きる事なく、耳は聴いても満たされない
かつてあったことはこれからもあり
かつて起こった事はこれからも起こる太陽の下、新しいものはなにもない
見よ、これこそ新しいと言ってみても
それもまた永遠の昔からあり、この時代の前にもあった
昔の事に心を留めるものは無い
これから先にあることも
その後の世には誰も心に留めはしまい~旧約聖書 『伝導の書』 コヘレトの言葉
仏教の「空」思考まで語られた日には、「ほんまキリスト教かいな?」と絶句しちまいます。
また、方丈記の無常観そのものであると言っても過言ではないでしょう。
ただ、現実ってそんなもんなんですよね。
その中で、普遍的には無意味・無価値とわかっていながらも、自らの中で有意味・有価値なものを求め、生きていかねばなりません。
他の動物とは違い、知恵の実を食べた人間は、種を残すだけでは存在し得ないのです。
悲しいかな、人はそういう生き物なのではないでしょうか?
オチに困ったので、空虚ながらも味のあるページを置き逃げします。
Posted by ナカノヒト : 2005年05月12日 13:40 | コメント (0)