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「心にうつりゆくよしなしごと」について


「心にうつりゆくよしなしごと」について

<120>Society-社会 牧民官・後藤田正晴に送る

9月21日の記述通り、私が過去にやっていたサイトに掲載したテキスト(2000年6月6日)を以て、尊敬する後藤田正晴氏を送ります。
なお、このテキストは非常に堅いですが、日本の文化風俗史、民俗学、政治史など、ありとあらゆる要素が詰め込まれた一文です。

この頃は森総理が「日本は神の国」と言い、大騒動になった時期。
私は某メディア関連会社に勤務していました。
当時の世相を思い出しながら読んで頂ければ幸いです。

また、今は間違ってもこんなテキストは書けません。
かなり頭が腐ってしまったようで。

それでは、以下から引用します。


2000年6月6日(火)

今月の締め切りは、史上最速記録を持って無事終了。
そんなんで社内は平和なのだが、世間は騒がしい。
森総理が「日本は元来神の国」とのたもうたかららしい。

僕は右の人間では無いが、懐古主義者で保守派で悲観論者であることは案外知られていない。
そんな「懐古主義者で保守派で悲観論者」の目から今回の発言を考えるに、森首相の発言は支持できた(←過去型)
何故なら今の日本はどうも慢性糖尿病的様相を呈しているとしか言い様が無く、その状態に対する警鐘と捉えたからだ。

そしてその「慢性糖尿病的様相」には敗戦後の社会構造の変貌が大きく影響していると思われる。
昭和初期までの社会は富国強兵・殖産興行の向きがあったにせよ、古来からの農村社会(社を中心としたコミニュティ構造と農耕中心の生活リズム(補追1)が基板にあり、それが彼のアインシュタイン博士が絶賛する所(補追2)の「真摯で寡黙で勤勉な国民性」を維持する礎になっていた。

コミニュティ内の子供は全員で育てる考えが基本だったので、自分の親以外に叱咤されることなど当たり前で、コミニュティ内のルールを幼少から身につけられ、更にそこで得た物差は社会にも適応される。
都市部においても「隣組」や「町内会」制度で、同様の形は維持されていた。
だから未成年が凶悪犯罪を起こすことなど考えられなかったのだ。
これは物質社会とは程遠い、良い意味での「精神社会」であったと言える。

ところが敗戦後の占領政策で、日本は精神社会から180度方向転換を余儀無くされた。
当時これら末端組織の最頂点には「内務省(補追3)」があり---現在の官僚主義の原点でもあるのだが---当時の内務官僚は「民のための牧民官」と言う信念の元、後藤田正晴(補追4)を始めとする気骨ある傑物が多かった。
更にこの気骨、勅任官(補追5)なら尚更である。

敗戦後、まずGHQが目をつけたのは、古来から続く日本の縦割り型社会構造の近代化の象徴とも言える内務省。
何故いち早く目をつけたか?
国民一人一人の基本台帳を握っていたのも勿論そうだが、電話一本で市町村末端まで細かい指示が行き届く徹底した縦割り構造、そして行動力溢れる傑物。
敗戦後の復興が著しく早かったのは、内務省と農村社会の縦割り型社会があったからこそだ。

しかしこの急速な復興は「鍵っ子」と呼ばれる子供を多く作り、「鍵っ子」が「団塊の世代」と呼ばれ、更に彼等が親になった今、子供の育て方を知らず、更にその子も子供の育て方を知らず……結果として国の礎である家庭までもが崩壊の危機に瀕しているのが現状である。

このような歴史的懐古(古き良き時代)の喩えとして前述の「神の国」に行き着き、バスジャック事件等未成年の凶悪犯罪が横行し、やる気の無い大人達が彷徨う現代日本を憂い、警鐘を鳴らしたのだと思い、支持する旨を知己にも語った。

しかし、しかしである。
「国体の護持」は流石にイカン!
これは玉音放送で昭和天皇が述べた所が有名であるが、戦前の日本社会では普通の言葉として生きていた言葉で「天皇主権」を換言した言葉であるからだ。
「文化的国体の護持」と言う考え方なら僕も大いに頷ける。
先進国で国旗・国歌が法的に「存在しなかった」国は日本だけで(先日国旗国歌法案が漸く可決された)日本・日本文化への誇りが損なわれている今、独自の文化風土を育んできた自国を大切にしよう、と考えるなら心から賛同するのだが、どうもそうでは無いらしい。
ヤツは右っぽいのだ……それは諸外国に対してヤバくないか?

ここまで読んで下さった諸氏。
僕のことを「結局右やんかー」と言うかも知れない。
確かに文化論的視点では右であることは認めるが、政治信条は「アナーキー寄りの中道」なのです(苦笑)

余談だが、昭和30年代後半まで東北・北陸地方の一部には原始農村共産社会の名残りである夜這い(補追6)が農村社会のシステムとして残っていた。
内務省解体は昭和22年、教育勅語(補追7)が正式に失効したのは昭和23年7月。
戦後は遠い昔の話では無い。


~以下、用語補追~

●農村社会と神の話(補追1)
「八百万の神々」と言う言葉を知っているだろうか?
紀記(日本書紀・古事記)の頃から、日本では八百万の神がいると考えられていた。
それは自然は勿論、日々使う日常用品まで全ての「モノ」に神が内在すると言う、詰まる所「日々感謝して物を大切にしよう」と言う教えの基本となる思想である。
古代後進国だった日本は、この様な独自のアメニズムが色濃かった。
「黄色人種は温厚」とは良く言うが、島国根性のため内気な所に、更に農耕が拍車をかけたものだから、温厚・内気に輪がかかってしまった(苦笑)
そして奈良時代に大陸からの文化伝来により「秘める事」が美徳として定着してしまったため、政治家がその美徳を悪用して「遺憾です」などと英訳しにくい言葉を頻繁に使う様になってしまったのだ。
日本人の「相手に悟ってもらう」と言うことは、確かに人間関係は高速には動かないが、円滑には進めることができる。しかし、現代はそれら古来からの美点が全て悪い形で出てきてしまっている。
それこそ僕は「遺憾」に思う。

●アインシュタイン博士の来日(補追2)
アインシュタイン博士は大正11年(大正デモクラシーの真っ最中)に当時の出版社「改造社」が中心となって日本に招待された。この来日はアインシュタインにとって唯一のアジア体験であり、渡航中の船上でノーベル賞受賞の報を受けたこともあり、博士自身にとっても思い出深い旅行となった様だ。日本国内でも熱狂的に迎えられ、行く先々で大歓迎を受けたのは勿論、各地の新聞社も大きく取り上げた。
以下に大阪朝日新聞に寄せた帰国当日に日本国民に寄せたメッセージを掲載する。如何にアインシュタイン博士が日本に深い思い入れを抱いていたかが伺える。(現代口語仮名に変えてあります)



「謙譲で実篤な国民へ」
~いよいよ日本を去るに臨んで 相対性博士の謝辞と希望~
予が日本に渡来以来至る所で日本国民の心からの歓待を受けたことについては何よりもまず第一に感謝するところである。次に予が一ヶ月に余る日本滞在中特に感じた点は、地球上にもまだ日本国民の如く爾く謙譲にして且つ実篤の国民が存在していたことを自覚した点である。世界各地を歴訪した予にとって未だ斯くの如き純真な心持ちの良い国民に出会ったことはない。又、予の接触した日本の建築、絵画其の他芸術や自然については山水草木が悉く美しく細かく日本家屋の構造も自然に叶い総て一種独特の価値がある。故に予は此の点については日本国民が寧ろ欧州感染(ママ)をしないのを希望する。又福岡では畳の上にも坐って見、味噌汁も啜ってみたが、其の一寸の経験から見て予は日本国民の生活を直ちに受け容るることの出来た外人の一人であることを自覚した。


アインシュタイン博士はアメリカ亡命後、ナチスドイツに対する原爆の使用をルーズベルト大統領に書簡で進言していた。しかし、先にドイツが敗戦し、日本だけが残ったとき、周知の如く広島と長崎に原爆が投下された。アインシュタイン博士が原爆投下の報を知ったのは一般人同様ラジオからのニュース。このニュースを聞いたとき博士は「Oweh!」(ドイツ語で「なんと悲しいことか」の意)と言ったきり、暫く口がきけなかったと言う。

●内務省(補追3)
内務省は大日本帝国の内政の中枢を占める官庁で、それ故に内務官僚は「官僚の中の官僚」と自他共に認め、誇りを強く持つと共に「牧民官」として清廉と公平を求められた。
明治6年に山県有朋によって創設され、大蔵省・司法省・文部省などの職掌を除く民政全体を掌握していたのである。内務官僚は大蔵官僚のことを「金勘定屋」と言い、外務官僚のことを「高等通訳」と揶揄したのも、そういう背景があるからである。ここからは後藤田正晴を始め、中曾根康弘など高度成長期を支えた後の有力大物政治家が多数職にあたっていた。

●後藤田正晴(補追4)
大正3年徳島県生まれ。東京帝国大学法学部卒。内務省入省後、警察予備隊の創設に当たる。
更に自治省官房長、警察庁長官、内閣官房副長官を経て衆院選(徳島全県区)に当選。
官房長官、副総理兼法相などを歴任。その辣腕ぶりは「カミソリ」の異名を取る。
平成4年に法務大臣として長く懸案のままになっていた既決の死刑囚に死刑執行命令を出すなど、元内務官僚としての面目を示す一方で、戦後憲法体制が「蟻の一穴」から崩れかねないと危惧する護憲派である。
イラン・イラク戦争では中曾根内閣の官房長官として日本の掃海艇派遣に反対、「海外の武力行使だけは断じて認めるわけにいかない」として自衛隊の「参戦」を中止させた。
これは自衛隊の前身である警察予備隊創設時の「海外派遣は断じてしない」と言う条件を頑なに守った結果である。
また、彼は「自衛隊は軍隊ではない」と言う。「軍隊は一般人と違い軍法に拘束されるが、自衛隊には軍法は存在せず、一般人同様の法に従っているから」と言うのがその根拠。この説に、法学部に在籍していた僕は、思わず呻ってしまった。
平成5年に宮沢内閣不信任案が国会に提出・可決された時、後藤田に総理大臣就任の依頼が舞い込んできた。
後藤田ならば与野党一致で総理大臣の椅子に座れたのである(つまり、それだけ党派を越えた信望と実績があった)。
なのに体調不良を理由に固辞している。せめて後10歳若かったら……と悔やまれてならない。
また、危機管理対策には定評があり、阪神大震災時にも対策本部の顧問に名を連ねていた。しかしその椅子に座りながら対応の遅さを批判していたことは言うまでもない。
後藤田の批判が無くば、もっと対応は遅れていただろう。

●勅任官~戦前の官僚システム(補追5)
高等文官試験を通った官僚は、まず判任官に任命される。
この判任官を一定期間経験してから高等官に任命されるが、高等官は更に細分化していて勅任官と奏任官に分かれる。
勅任官とは高等官の一等・二等を指し、三等から九等は奏任官。
その他、内閣総理大臣・国務大臣・枢密院議長などは親任官と云い、天皇から直々に任命される。勅任官と奏任官の違いは、勅任官は勅命により任命され、奏任官は内閣総理大臣が天皇に上奏し勅裁を得て任命されると云う点である。

●夜這い(補追6)
原始共産制に基づく農村では、労働力は貴重であった。
その労働力を生み出す女性は、当然もの凄く重要な位置を占めていたのである。
平塚らいてうが「原始、女性は太陽であった」と言うのは、この事を引いている。
女性中心であるからには、当然男性に対する選択権も強く、一概に夜這いに行っても女性は頑と拒む権利があった。従って同一家庭内に異父兄弟姉妹がいることが普通だったのである。
そうそう、結婚と書いて「よばい」とも読んだしね、昔は。
現代では少子化が進み、将来の年金を支える「労働力」が危惧されている。
だからと云って夜這い制を復活させるのはイカンけど、俺自身は今んトコ子供はいらないんだよなぁ~(苦笑)

●教育勅語(補追7)
明治天皇によって明治23年に発布された戦前教育の指針を示した勅語。
正式には「教育ニ関スル勅語」と言う。山県有朋内閣の下、井上毅らが起草した。
教育的徳目を基礎に、忠君愛国などの国民道徳を説く。御真影(天皇の写真)と共に全国の学校に配布され、礼拝・奉読により国体観念を植え付け、天皇制の支柱とした。以下原文を掲載する。
(記憶を頼りに打っているので、間違いはあるかも……←覚えてるなって?)


朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我ガ國軆ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣ノ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラズ又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス
朕爾臣民ト倶ニ挙挙服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日 御名御璽


「御名御璽」とは、天皇の御名と玉璽を省略したものである。
省略っちゅーか、実物は畏れ多すぎて庶民にはモッタイ無い、っちゅーことから、こーやって省略・簡略化されるようになりました。
要は、実物は畏れ多すぎるっちゅーことね。
僕は中学時にこの本物を見たのだが、当時の僕はスレていたので「理想論じゃん」と一言で片づけてしまった。が、そこで記憶してしまったなんて……
やっぱ頭の使い方間違ってるな(苦笑)

Posted by ナカノヒト : 2005年09月24日 01:08 | コメント (0)

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